読書: 自由を考える -9・11以降の現代思想-


自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

第三書の審級(大きな物語)が消失し、規律訓練型社会から環境管理型社会への移行が進むなか、インターネット、ユビキタスネットワークの存在により、秩序維持は可能になる。
社会には動物化=マクドナル化した管理の仕方が浸透している。

監視する主体が分散化した社会—ドゥルーズの言う「管理社会」—がごくごく当たり前になってしまった昨今。
規律社会から管理社会への推移の眼目は、本来分けられなかった個人が、データによって可分性を帯び、「分割可能な個人」になったことであろう。
東の掲げる環境管理型権力もこの枠組みに入る。

規律訓練型権力と生権力のうち、後者が強くなったのが現在の管理型権力。規律訓練型は人間の自己反省の能力を、生権力は生物としての人に注目する(人間を後者は動物化している。)
大澤「規律型権力社会では、告白によって、自律性の自覚を獲得することが、従順な主体になることだったが、スターリン主義の権力では、人は内面化できる理由なしに逮捕されているわけだから自律性を手放さなくてはならない。現代の環境管理型権力の中に日常化したスターリニズムを見るのか?」
東「社会秩序は環境管理で維持し、それでも起きる事故を物語化するために、別のレベルでわかりやすい言説が要請されるという二重構造。言説で表現される価値観はオプションでしかない。こうした中での自由な「意志」とは何なのか?」
現実世界でもサイバースペースでもどんどん匿名的な領域を縮減している。
固有性をもった主体とは異なった、偶然的な「私」、いつ他者になってしまうかもしれない存在としての「私」、そういう主体の在り方を考えたい。

ではこの変化で、私たちが失ってしまうものは何だろうか。
実はすぐさま思い浮かばない。私の位置情報が知られるのも、「私」に結びつかない限りでは、利用されて結構だし、それが公共のどこかの面で向上に役立つのなら、悪い気はしない。
だが、現代社会の環境管理型権力は、自由の剥奪感覚そのものを極小、麻痺させるように働いている。「自由ってなんだっけ?」とぼんやり考えながらも、サービスの利便性についついのっかてしまう。もしかしたら、この想像力の枯渇状態こそ、環境管理型権力の帰結なのかもしれない。
この”ずるずる”感が、「人間疎外」じゃないとして、いったい何なのか?

また、デイヴィット・ライアンは『監視スタディーズ』(現在併読中)のなかで、しきりに監視プロセスの透明性を強調しているが、情報開示をして透明性を追求したところで、実は専門家以外には何の判断材料にもならない。専門技術に過度に依存した現代社会では、透明で公正な議論なんて幻想でしかないのだ。

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