読書:エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

エーリッヒ・フロムは1900年フランクフルトのユダヤ教徒の家庭で出生し、1980年にアメリカで亡くなった。フランクフルト学派の大半がキリスト教になじんだ同化ユダヤ人で構成されているなかで、フロムは生涯、敬虔なユダヤ教徒として通した。

彼の業績として、フランクフルト学派におけるマルクスとフロイトの思想統合をあげておかなければならないだろう。

自伝的な著書『疑惑と行動』では、マルクスとフロイトの統合について平明に語っている。それによれば彼がフロイトに惹かれたのはある経験が切っ掛けとなっている。彼の家族が親しくしていた画家が、自身の父親の葬式に際して、一緒に埋葬してほしいと言い残し、自殺してしまう。この画家が取った行動が長年彼の意識にこびりついていたが、フロイトの著作に触れることで、画家の行動を理解する鍵を見いだしたのだという。以後自ら精神分析を受診・臨床を行うにいたる。マルクスに関しても、青年時代の感慨から傾倒の契機を回顧している。彼の若かりし第1次世界大戦前後の時代、ナショナリズムに沸き立つドイツにあって、誰も彼もヒステリックな情動に突き動かされている状態にあった。こうした大衆の気性にある種の不合理を感じ、こうした社会現象を読み解くツールとしてマルクスを認めていたのだった。

この2つの思想を統合することにどのような意義があるのか。

マルクスは経済的な状況が人間の意識や文化を規定すると主張していた。ただ具体的な「規定」の実態はマルクス自信は明らかにしていない。こうしたマルクス理論の欠陥を補うに際し、フロムは精神分析がもたらす人間理解は大きな寄与をすると考えたのである。他方フロイトならびに精神分析には資本主義を前提とする嫌いがあり、社会の変容可能性を視野から外していると批判、マルクス理論との接続によって精神分析理論のさらなる発展が期待できると考えていた。

本書のキーワードである「権威主義的性格」も、フロムのこうした方向性から生まれた解明である。マルクス主義に染まった学派の思潮にフロイトの思想を注入したという点で、学派初期のフロムの役割は大きなものがあった。

1920年代後半すでにドイツで研究者として活動し始めていたが、ナチス政権下のドイツから逃れて、パリ経由でアメリカに亡命。『Escape from Freedom』は1941年ニューヨークで初版を発行された時点では、フロムはフランクフルト学派と決別していた。。日本では1951年に翻訳された。

戦後民主主義を主導した丸山眞男が発表した『超国家主義の論理と心理』では、日本の軍部に見られる抑圧移譲の性質を看破していたが、本書『自由からの逃走』の分析が妥当だとすれば、ナチスにも同様のことが言えるのかもしれない。

本書はファシズムが起こった経済的社会的条件のほかに、人々の心理的要素を理解する必要があり、「心理的要因と社会的要因との交互作用」を基礎として議論を進める。

(以下読書メモ)

自由とはなにか?

→自由を得たいという内的な欲望と服従を求める本能的な欲求があるのでは(p13)

フロムとフロイトのスタンス

フロイト:人間関係は市場(欲求の満足の交換)、人間性悪説、抑圧こそ文化の源

フロム:社会は抑圧的な機能だけではなく、創造的な機能もある

人間:人間自身が絶え間のない努力の最も重要な創造であり完成である

社会心理学:新しい能力や情熱がなぜ生ずるのか、歴史も人間によって作られるという矛盾を解明するもの

第4章 近代人における自由の二面性

人間はより自由で孤独・孤立した存在へ

中世:外的な束縛 近代:内的な要素=匿名の権威(世論、常識など)

これらの世論や常識の力は極めて強力(p122)→伝統的支配からの脱却を覆すほど

資本主義の影響

積極的な自由を大いに増加させた→能動的、批判的な責任を持った自我が成長→自己責任の増大→個性化につながる

中世:経済活動は目的に対する手段 近代:経済活動・成功・物質的獲得自体が目的(p127)

人間がつくった機械の召使いとなり、個人の無意味と無力の感情を生み出すことへ

人々は「からの自由」の重荷に耐えられない→(消極的な自由から積極的な自由へと進むことができない限り)自由から逃れようとする

逃避の方法→指導者への隷属(ファシスト)・強制的な画一化(民主主義国家)(p151)

第5章 逃避のメカニズム

自由からの逃避最初のメカニズム

→人間が個人的自我を捨て、外側の大きなものと自分自身を融合させようとする(p159)

服従と支配への努力(自己否定、意思がない、外側の制度・人々に寄りかかろうとする)

マゾヒズム的傾向:自己批判、自己非難を繰り返す、自分を苦しめる、自分に損であるような行動を取る

同時にサディズム的傾向も見られる

サディストは支配する人間が必要であるため、支配されている側が依存されて(・・・)いる(・・)と考える

マゾヒズム・サディズム的努力は孤独感や無力感(=自由の重荷)から逃れるのが目的であり、非生産的

このふたつの志向が共存するのはなぜか

→これも自由から逃れるため、自己の統一性を失った片方は、もう片方に依存・一体化する(=共棲)

この共棲的複合体は、振り子のように能動的側面と受動的側面を持つ

人々が正常であるか否かは、その社会的状況や文化に左右される

ドイツ含む欧州の下層中産階級は、サド・マゾヒズム的性格が典型的であった→これらはナチのイデオロギーに強い影響を受ける

病的な印象を与える「サド・マゾヒズム的性格」という呼称は、一般人に当てはめると、権威をたたえる「権威主義的性格」とよぶことが出来る(p182)

権威にも区別がある:外的権威と内的権威

近代思想は外的権威を内的権威に置き換えることで発展してきた

「事実、プロテスタンティズムからカント哲学までの近代思想の発展は、外的権威のかわりに内的権威をおきかえる過程として特徴づけることもできよう。勃興する中産階級の政治的勝利によって、外的権威の特権は失われ、かつての外的権威の位置に、人間の内的良心が取って代わるようになった」(p184)

しかしこうした内的良心に従うことは、以前の外的権威同様、倫理的規範の威厳を装った社会的要求に従うことに変わりなかった

自由に対する考察(近代における自由の二面性/デモクラシー)

第1次的絆からの解放された個人が「への自由」を発見できないと、「からの解放」は孤独感や無力感に変質することがある。その時の自由は重荷となってしまい、代わりに権威を求めようとする。

・現代社会:感情を抑圧することを善とし、「独創性」欠如の社会。

→「個人」の弱体化。自我の喪失とともに、順応の必要性。

民主主義という正攻法にのっとって、現われたナチズムがその端的な例。

「近代人はかれがよしと考えるままに行為し、考えることを妨げる外的な束縛から自由になった。かれは、もし自分が欲し、考え、感ずることを知ることが出来たのならば自分の意志にしたがって自由に行為したであろう。しかしかれはそれを知らないのである。」(p.281)

自発性:自発的な活動(自我の統一を犠牲にせずに孤独の恐怖を克服できる。「…への自由」)が真の自由に繋がる。愛が好例。

「…もしかれが自発的な営みにおいて、自然に対してそれ(自分や人生における自分の位置についての根本的な懐疑を克服すること)を包含するような関係を保つならば、かれは個人として、強さを獲得し安定を得る。」(p.287)

付録「性格と社会過程」では文化や社会を分析する視角として三人の人物をあげている。すなわち、フロイトの「心理学的」接近、マルクスの「経済学的」接近、ウェーバーの「エトス的」接近を一つ一つ論じ、敬意を表しながらこれらの接近を修正・総合した方法を示唆している。

フロイトに対してもう少し社会的要因を重視すべきであると、ウェーバーの宗教改革を取材した論考とは違うアプローチを、マルクスについても様々な批判をしている。

ナチス権力の登場も分析する。ナチスに不信感を持つ「労働者階級や自由主義的およびカトリック的なブルジョワジー」も存在していたが、抵抗の意志は強くはなかった。また、政治に強い関心を持っていない大衆は、恐慌や失業の時代の中で、ナチスの権威礼賛の宣伝を容易に受け入れた。


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