読書:バルガス=リョサ『楽園への道』

この本を読んだきっかけから話したい。

数年前に池澤夏樹が監修した世界文学全集が出版され、それらに挑戦してみようと、最初に手に取ったのが本書であった。リョサがノーベル文学賞を取っていたのも知っていて、南米文学への関心も僅かながら存在したので、この本から新しい文学全集を切り崩そうと考えたのだ。

出発当初はコンプリートを志していたこの旅も、十分な持久力や、物語の背景を理解する素養も持ち合わせていない自分には、途中から嫌気のさす長距離マラソンと化し、道草を繰り返しながら、かと言ってリタイヤ宣言はせず、ここまでやってきた。

終わりの見えないこの旅の第一歩となった『楽園への道』は、私にとってあの頃のみなぎる奮起(のちに後悔に変質するが)を思い出させてくれる一冊なのだ。そしてこの本を読むことができたのは、今にして思うが、幸運であったのかもしれない。

物語は、二人の主要人物(画家のポール・ゴーギャンと革命家トリスタン・フローラ)のストーリーを交互に展開しながら進んでいく。村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も二つの物語軸を交差させた構成をとっていたが、どちらの物語も、大きな意味合いで「ミステリー」という点で似ている。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が技師のちょっと奇想天外な都会生活と、童話のような雰囲気の図書館とその周辺の話を切り替えながら、徐々に関連性と謎を明らかにしていく「ミステリー」だとすれば、革命家である女性とその孫である画家が、物語中盤で実在の人物をモデルとして、さらには画家は著名な人物であることが少しずつ暴露される『楽園への道』もまた、「ミステリー」であると言えよう。

本の前情報を一切確認しなかったおかげで、私は現実世界とリンクされる瞬間の恍惚感を味わうことができた。もしこの文章を読んでいる人がいるのならば、そうした機会をあらかじめ奪ってしまったことをお詫びしておきたい。

しかし歴史小説の顔を持つため、同時代の出来事や風俗に思いを馳せながら、読書に浸るのも悪くない。それにリョサ持ち前の上等なストーリーテリングを楽しむのも良し、その勢い分厚いページ数も気にならないほどである。

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タヒチでの生活から生まれた名作『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』

物語の並置構成の理由

交錯した物語の筋はリョサの作品の特徴でもある。実際、彼の作品群には読者を眩惑するような場所・筋の切り替えが多い。例えば『緑の家』という小説も、当初平行して書き連ねていた作品を、リョサ自身が頭の中で物語の区別がつかなくなった末、いっそ一つの作品に再構成すればよいのではと、苦心の結果、生まれた。海岸の町ピウラの砂漠とアマゾンの密林、緑の家の娼婦と伝道書のシスター、盲目のハープ弾きとウラクサのフム、などなど。地理的にも時間的にも隔たりがある二つの地域が、一つの作品に収まっている。

さらに自伝的小説『フリアとシナリオ・ライター』では、高齢の女性との婚約を追い求める、リョサ自身をモデルにした大学生の奔走劇と、ラジオ局で働く作家カマーチョ(こちらもモデルが存在する。ラウル・サルモンというラジオドラマの作家)のラジオドラマを交互に差し込んでいく。リョサは最初サルモンを主人公にした話を書くつもりだったらしいが、なかなか筆が進まず、『緑の家』同様、試しに自分の体験と組み合わせて小説を書き始めたのであった。

以上のことからわかるように、彼の作品を特徴付ける「対位法」は、進まぬ筆を前に、やむを得ず選択された手法であると言えよう。そうした難産の末生まれた小説は、作者自身も意図せぬ独特な魅力を帯びるようになったのである。

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