翻訳:リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』 ガーディアン紙「ベスト・ノンフィクション100」

プロジェクト---Drawing-2ご無沙汰していたブログ更新です。今回はガーディアン紙の特集で面白いモノがあったので、そちらから翻訳しました。

ドーキンスの本作は、大学生(特に理系)なら一度はチャレンジしてみたことがあるでしょう。どちらかというと生物学に疎い私でも、SFにはどっぷりはまっており、その延長で『利己的な遺伝子』を読むと、あら不思議、ディストピア風な世界観が待ち受けているではないですか(もちろん価値観をこの本に持ち込むのはナンセンスなのは承知してますが……)。

ソラリス』と『Brave New World』のあいだに収めているような読者を受け入れてくれるのかはわかりませんが、あまり難しいことは考えずに、ダーウィニズムとの位置関係を理解するため書評を翻訳しています。誤訳などあったら指摘していただけるとありがたいです。

(以下翻訳)

The 100 best nonfiction books: No 10 – The Selfish Gene by Richard Dawkins

(さらに…)

読書:カール・シュミット『政治神学』

ゼミ向けに作成したレジュメを掘り出したので、更新の途絶えていたブログにアップしておく。友-敵の理論が有名なシュミットだが、本書も政治の本質を突き詰めていくスタイルであり、『政治的なものの概念』と併せて読みたい。初学者・後学者のために…

主権の定義

主権者とは、例外状況にかんして〔ママ〕決定をくだす者[p11] (さらに…)

旅行:山陽道自転車の旅 2日目

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その日の夜は高台の公園に野宿した。

ドッペルギャンガーのテントには、もちろん網戸(?)はついているのだけれど、

春秋に対応するためか、風があまり入り込まない高さにある。

さらに、その日は全く風も吹かない。ゆえに、テント内は蒸し風呂だった。くそあつい。

仕方ないので、近くのクーラーのガンガン効いたマクドで夜を明かそうと思った。

そしての次の日の早朝。

なぜかテントの中で眠ってる自分に気づく。やはりマック泊では体の疲れが取れない。

昨晩はあたりが真っ暗な状態でここに決めたので、テント周辺のことは知る由もない。

5時過ぎ、日が地平線から顔を出し始める時間帯、野宿場所の様子が少し把握できるようになる。

なんと近くに小学校があるではないか。なぜか中年男性が小学生を監禁したニュースが頭をよぎり、

これは早めに出発したほうがよさそうだと、せっせと片づけを済ませて、相生市を後にした。

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かすかに霧の立ち込める高取峠を登り切り、数分ごとにやってくる運送トラックに注意して、一気に滑り降りる。

峠から、溜めに溜めた位置エネルギーを解放する瞬間はちょっと言語化しにくい。

もちろん、このあと立ちはだかる兵庫県と岡山の県境にある帆坂峠の急峻さを知らないがために持てる感慨であった。

千種川をそばに朝の空気をおもいっきり味わう。ぽつぽつと御老体やランナーを見かけるようになる。

日が昇り切り、すっかり午前の様子。太陽が本気を出す前に岡山に行きたい。赤穂市街をぐいぐい突き進む。

さてgooglemapの示すルートに従えば、この帆坂峠とやらをクリアしなくちゃならないらしい。

もちろん考える暇などないのでさっさと峠のぼりをスタート。

最初はなだらかな上り坂で楽勝かと思っていたのだが、その上り坂が、長い。こういう消耗させるタイプ、苦手だ。

荷物も多いため、峠最高点数百メートル手前でさすがに手押しに。ここはでっかいトラックしか通らない。排気ガスすいまくり。

備前市街まで、これまた長い下り坂。しかし、時折アップを織り交ぜ、かつ道路の舗装が甘いところがあるので、素直に喜んではいけない。

 

吉井川あたりに到達したところで、にわか雨が降りだした。

目に見えて雲行きがあやしくなったかと思えば、斜めに突き刺さる豪雨である。しぶき雨、甚雨。

このころは台風が接近していた。その後の到着地である別府では、さほどであったが、兵庫の実家は暴風を忍んだとのこと。

通り雨であろうと見当をつけ、バス停で雨宿りした。後ろ窓から稲が乗り出すように顔を出し、蜘蛛の子が足元をうごめく。

屋根に跳ね返る重たい雨の音、1時間に二つの頻度の時刻表、荷物を這う蜘蛛を手ではらう自分の焦心。

30分しても、土砂降りはやみそうになかった。

時間が惜しいので出発した。上道駅あたりで雨は止んだ。

 

旅行:山陽道自転車の旅 1日目

昨日自転車のリアキャリアを千里のサイクルベース・アサヒまで買出しに行ったためか、体に疲労(特にふくろはぎ)がたまった。自転車で一人旅行に行くというのにこの体たらく。

asahiのリアキャリア

家族との食事を9時に終えて、体に導かれるままに布団に滑り込んだ。熟睡。

目が覚めたのは、まだ日付の変わらない時刻であったものの、久しぶりの十分な睡眠のおかげか、頭がすっきりしている。

身支度はほぼ済ませていたが、いざ出かけようとする折に物音を立てて家族の安眠を妨害できる“勇気”は、いつもなら、ないはずだ。(この言葉に注目して、私の家庭での位置づけがお分かりいただけるだろうか…)

ただ、今回ばかりは自分の急く性分が勝ったようで、家族への配慮などとっくに消失していた。旅の魔法にかかっているのだ。

静まり返った住宅街を、縦横に切り込むように道をゆき、幹線道路に出ると、運送トラックの轟音が橙色に染まった道を満たしていた。

夜の道路

一つ困ったことがあった。

リアキャリアには、amazonで購入したドッペルゲンガーのテントやグラウンドシート、その他もろもろの荷物を積んでいたのだが、舗装され平坦な国道とは言え、かすかな振動も絶えず伝わってくる。こうした微弱な揺れに負ける形で、荷物が徐々に重心を左側に移す。そのたびにいったん止まり、固定網を引っ張りながら、水平の位置にもどす。

そして、首を回さねば、その状況を確認できないので、いちいち背中に配慮をしなくてはならない。こうしたちょっとしたことですら、長距離移動にはつらい。

三宮前のドンキで、栄養バーと炭酸水を購入。この時間帯に店内をうろつく輩は、何かとアングラなかかわりを持っているようで、珍走族上がりの夫婦と泣きわめくベビーカーや、パーティー帰りの貴婦人と見紛ういでたちのキャバ嬢と、生活感を強調した服装のホストなど、今回見かけた。

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明石大橋上空に虹がかかっていた。幸先の良い夜明け。姫路につくと、ベンチで休憩し、施設で本格的に爆睡を決め込むつもりだったが、図書館や博物館など、いずれも10時からの開館であったため、公園のベンチで休むことにした。そういえば朝から何も飲んでいなかった。ダイドーの自販機から100円の炭酸飲料を引き出し、豪快に飲み下す。私はものを飲むとき、上を向く癖があるが、この時も例にもれず、夏の光を見上げながら、冷たいジュース缶を傾けた。夏だと思った。

夏の快晴は人を殺しかねない。木陰のベンチにもかかわらず、まばゆく輝く地面からの暑気が、首元まで及んだ。皮膚に汗がにじみ出る。

睡眠中に蚊の襲来がなかったのは、もしかしたらこの暑さのためか。

姫路城

何かのきっかけで目を覚ますと、背中のまとわりつくものを感じた。寝汗を少しでも乾かそうと、姫路城周りの公園をうろうろするが、たいした効果はなかった。体の節々に痛みを感じながら、先を急ぐことにした。たつの市街。このあたりにはまだサイクルベースアサヒやドラッグストアのジャパンがある。途中見かけた、巨人が削り取ったような岩峰は地元にある蓬莱峡を思い出させた。

赤穂へはあと数キロというところで、また休みたくなった。足を休めるつもりで、相生市街にむかうつもりが、線路や道路が入り組んでいたために方向を失念、たどり着いたのはすでに5時過ぎ。もうだめだ、1時間西へ東へをしているうちに戦意喪失。今日はここでお泊り。

時報代わりに、造船所や波止場のスピーカーから、続々とためるようなサイレンの音が響く。ちょっとしたホラーである。

旅の垢を落とすため、市唯一の銭湯でまったり。2人の老人を除いては、ほぼ貸し切り状態。別府の温泉に慣れてるためか、無色透明なお湯は新鮮だった。

中国風にかたどられた道の駅、ペーロン城のそばには24時間営業のスーパーがあって、何度も利用させてもらった。11時過ぎに持ってきたテントで就寝。

読書: 自由を考える -9・11以降の現代思想-


自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

第三書の審級(大きな物語)が消失し、規律訓練型社会から環境管理型社会への移行が進むなか、インターネット、ユビキタスネットワークの存在により、秩序維持は可能になる。
社会には動物化=マクドナル化した管理の仕方が浸透している。

監視する主体が分散化した社会—ドゥルーズの言う「管理社会」—がごくごく当たり前になってしまった昨今。
規律社会から管理社会への推移の眼目は、本来分けられなかった個人が、データによって可分性を帯び、「分割可能な個人」になったことであろう。
東の掲げる環境管理型権力もこの枠組みに入る。

規律訓練型権力と生権力のうち、後者が強くなったのが現在の管理型権力。規律訓練型は人間の自己反省の能力を、生権力は生物としての人に注目する(人間を後者は動物化している。)
大澤「規律型権力社会では、告白によって、自律性の自覚を獲得することが、従順な主体になることだったが、スターリン主義の権力では、人は内面化できる理由なしに逮捕されているわけだから自律性を手放さなくてはならない。現代の環境管理型権力の中に日常化したスターリニズムを見るのか?」
東「社会秩序は環境管理で維持し、それでも起きる事故を物語化するために、別のレベルでわかりやすい言説が要請されるという二重構造。言説で表現される価値観はオプションでしかない。こうした中での自由な「意志」とは何なのか?」
現実世界でもサイバースペースでもどんどん匿名的な領域を縮減している。
固有性をもった主体とは異なった、偶然的な「私」、いつ他者になってしまうかもしれない存在としての「私」、そういう主体の在り方を考えたい。

ではこの変化で、私たちが失ってしまうものは何だろうか。
実はすぐさま思い浮かばない。私の位置情報が知られるのも、「私」に結びつかない限りでは、利用されて結構だし、それが公共のどこかの面で向上に役立つのなら、悪い気はしない。
だが、現代社会の環境管理型権力は、自由の剥奪感覚そのものを極小、麻痺させるように働いている。「自由ってなんだっけ?」とぼんやり考えながらも、サービスの利便性についついのっかてしまう。もしかしたら、この想像力の枯渇状態こそ、環境管理型権力の帰結なのかもしれない。
この”ずるずる”感が、「人間疎外」じゃないとして、いったい何なのか?

また、デイヴィット・ライアンは『監視スタディーズ』(現在併読中)のなかで、しきりに監視プロセスの透明性を強調しているが、情報開示をして透明性を追求したところで、実は専門家以外には何の判断材料にもならない。専門技術に過度に依存した現代社会では、透明で公正な議論なんて幻想でしかないのだ。

読書:教養主義の没落-変わりゆくエリート学生文化


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

総合雑誌は知識人の公共圏を形成する媒体であった。P19
教養主義の根っこにある人格主義も左傾化に連続している。酒を飲んだり授業をさぼる享楽型、効率よく暗記し授業でよい点を取り好ましい就職先を探す体制同調型を、左傾学生はことさら嫌う。彼らはマルクス主義に「個性の発展」「人間的成長」を見出したのだからマルクス主義は論理テ的ストイズムであり、教養主義の核をなしている人格主義と連続していた。したがって教養主義の内面化が強いものほど左傾化しやすかったのである。P52 マルクス主義が知的青年に、教養主義的空間の中での象徴的上昇感覚を与えた。
教養主義を内面化し、継承戦略をとればとるほど、より学識を積んだものから行使される教養は、劣等感や未達成感、つまりきはいをもたらす象徴的暴力として作用する。P54 マルクス主義はこうした教養主義的空間における罠やしこりを一挙に解除した。教養主義を敵体分子と決めつけ、象徴的暴力関係の逆転をもたらしてくれるものだった。マルクス主義は学識的な「貯金」をため込まずに象徴的暴力を振舞えるという意味では教養主義の荒技であった。
日本の貴族主義の生産工場であった帝大の文学部は他学部に比べて「農村的」で「貧困」で「スポーツ嫌い」「不健康」という特徴が抽出された。117
フランスの文系ノルマリアンは、地方の下層中流階級や民衆階級にしてみれば、言語資本や文化資本による見えざる選別が行われるために、門戸が極端に狭い。126 近代日本では逆に、理学部のほうが文学部よりも出身階級が高く、都市出身者が多かったのである。127
学歴貴族の仲間であり、且つ周辺(中退、選科)であることは、岩波と執筆者の間に了解圏と距離化の二重性をもたらした。この二重性こそ岩波文化成立にとって重要である。P148

帝大教授の著作出版を通じて、官学アカデミズムに正統性を賦与される。逆に官学のほうでも、自らの正統性証明のために民間アカデミズム(岩波文化)に寄り掛かった。岩波文化と官学アカデミズム(帝国大教授陣)は、文化の正統化の「キャッチボール」をすることでそれぞれの象徴資本(蓄積された威信)と象徴権力を増大させていったのである。P160
日本近代教養主義は、農村エートスを定礎としたもの。
井上俊によれば、教養の機能として「適応」「超越」「自省」の三つがある。1970年代以降、文化の適応機能が肥大化、自省、超越作用の衰え。三つの作用の亀甲と補完の動的関係が喪失している。人間形成には、現実に距離をとる超越性や超越性を相対化する自省の契機が不可欠である。が適応の文化である「キョウヨウ」にはそうした契機が見えにくい。242

(以下hiro)
近代日本で、上層部(華族)での近代化政策の勢いが、市民習俗の教養主義を加速させたという指摘。本書で言われる岩波愛は、確実に自分の中に生き続けている。帝大時代から連続している習慣だと知って、複雑な気持ちになってしまう。自覚はしてたが、「スノッブ」の揶揄はひどい。
教養の復権はありえないだろうが、しかしその(西欧主義的)偏愛癖は、日本人の根底部で未だ生き続けているように思われる。現在は、社会の要請から、教養が実用性の高い知識に洗練されていき、その過程が、もはや極まった状態にあるのかもしれない。

読書:『なぜ意志の力はあてにならないのか―自己コントロールの文化史』

欲望に満ちた現代社会、遺伝学が性格に取って代わろうとしている。p23

↑行き過ぎの行動から病気の領域を取り除く24


なぜ意志の力はあてにならないのか―自己コントロールの文化史

上品な文章とでもいうべきか。エッセイとはかくあるべきなのかもしれない。

著者の博学(衒学趣味のにおいもしないでもないが)の一例として、サイレンの話は印象深い。サイレンは美しい声で船人を魅了し,島に上陸させてはこれを滅ぼしたと伝えられる。トロイア戦争から帰国するオデュッセウスの船がとこの島にさしかかったときには,部下の耳を鑞でふさぎ,自分の体は帆柱にしばりつけておいたため,彼のみセイレンの歌を耳にしながらも,無事にこの難所を通過することができた。

このオデュッセウスの例は、セルフコントロールの本質を突いている。

彼は前もって準備をすることで欲望を抑えられることを知っていた。精神力で何とかなると、自分を過大評価するほど愚かでなかったのだ。

このサイレンの話から伺えるように、本書に収められた各エッセイの論調は、おしなべて人間それ自体の能力に不信感を抱いている。部分読みなので、読み違えはご容赦を。hiro

人生は? 遺伝・環境(一般的傾向)or 努力意志(書き手)

自己コントロールとは二次的欲求に従うこと28

もっとも一次的も大切で、人間の成長の糧となる。自己コントロールでは、わずかな手間・面倒が決め手。50 プリコミットメント (締め切りが私の支えだ)67

iPhoneは便利ではあるが、退屈な本を読むときに、ゲームや映画、テレビまで見れるとなると、読書に集中するのは至難であろう。p80

ディケンズが結論づけてるように「レーガンがアメリカを誘惑に出会わせた」ことは間違いなさそうだ。p100

教育の程度が高ければ衝動をコントロールする力が強いと見られている」(p113 )とあるが、これは《浪費するアメリカ人》にかいてある、程度が高い女性ほど、消費傾向を見せるという記述と対立する。

ダックスワーストセリグマンは、今度は楽しみを先延ばしにする実験と知能テスト(IQ )との関係を調べた。するとIQよりも自己コントロール能力の方が、将来の成績を予測する指標として遥かに優れてることが明らかになった。p156 《ツールズ・オブ・マインド》

具体的な強制が存在する場合は別として、人は自分の行動に責任があるという考え方をもとに、世界は成り立っている。たとえこの考えが当たってないにしても、そう考えなければどんな社会が構成できるかわからないではないか?個人の責任を認めないとしたら、人々の暮らしはどうなるのか?p218

大事なのは自分で決定しているという信念を失うのはとても危険だし、実際的ではないということだ。~自分の行動をコントロールしているという想定なしには人は暮らせない。p219

アブナーオファーは、だからこそ西欧民主主義では公的部門がこれほどまでに肥大したのだと指摘する。彼にいわせれば、人々は国家が提供する様々な便益のパッケージの方が、それぞれ勝手に金を使った場合よりも役立つことを理解している。この考えかたからすると、税金はコストのかかるプリコミットメントで、選挙民が浪費してしまって後悔しないように、老齢や病気、貧困に備えて保険をかけていることになる。p327

本当のことをいった方が良いらしい。嘘をつくのは自己コントロール能力に負荷をかけるからだ。~嘘をつくと、誘惑に抵抗するのに必要な心理的なリソースが減るらしい。p347


なぜ意志の力はあてにならないのか―自己コントロールの文化史

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